大隈重信と聞いてみなさんは何を思い浮かべますか?
えっと、確か早稲田大学を創設した人だよね。
その通り!早稲田大学を創設したことでみなさんにはおなじみかと思います。
また総理大臣になったことでも知られているんですね。
僕も大隈重信のことはこの二つのことしかよく知らなかったのですが、
彼のことを調べていたら、義足だったという驚くべき事実を発見しました。
そこで今回は大隈重信の足が義足になったのはなぜかということについて、
紹介していきたいと思います。また大隈重信にまつわる雑学も紹介しちゃいます!
最後まで読んでいただけると嬉しいです。
そもそも大隈重信はどのような人物なのか?
大隈重信は佐賀藩出身で元々は武士であり、明治維新の際、外交において、大いに活躍したことが功を奏し、中央政府に選ばれ、重鎮となるんですね。外務大臣や内務大臣を経験し、二度にわたって内閣総理大臣となり、日本の第一次世界大戦への参加や、大化21か条の要求などについて、
影響を与えました。また先ほども述べたように早稲田大学を創設し、初代総長をつとめるんですね。
1922年1月10日に83歳でこの世を去ります。
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なぜ大隈重信の足は義足になってしまったのか?
本題に入ります。ふと大隈重信のことを調べていたら、なんと足が義足だったという事実がわかり、大変驚きました。
ではいったいなぜ大隈重信の足は義足になってしまったのでしょうか。
その答えは、爆弾で足に重傷を負ってしまったからなんです。
彼は当時外務大臣で、罪を犯した外人が日本の法律で裁かれるのではなく、外人の出身国の法律によって裁かれるという領事裁判権の撤廃とひきかえに、日本の裁判に携わる職業に外人が登用されるという外国人司法官任用を推進していたため、その内容に反対していた来島恒喜(くるしまつねきという人物によって爆弾を投げられました。
なんとか命は助かるものの、足の傷が深かったので、膝より上を切断しなければならなくなり、それによって義足になってしまいました。一方暗殺を企てた来島恒喜はすぐ自害をしてしまいます。
ちなみに大隈重信の右足はなんとまだホルマリン漬けにされて龍泰寺に保管されており、
義足も佐賀空港大隈記念館に展示されているとのこと。
なぜ足を残したのか、きになりますね。
豆知識:始球式を初めて行ったのは大隈重信だった!?
ここで大隈重信にまつわる雑学を紹介します。
野球が始まる前に恒例の始球式というものがありますが、一番最初に行った人物はといえば、
意外や意外大隈重信だったんですね。
日本で始球式が開始されたのは1908年のこと。
アメリカの選手と早稲田大学野球部の選手との試合がはじまりとされ、その試合において、
始球式を大隈重信が行ったのですが、上記でも述べたように、大隈重信は暗殺されかけて、
右足が義足となってしまっていたため、彼はうまく投げられませんでした。
しかし、彼は早稲田大学の総長であったため、彼のことを尊重する必要があるとバッターは思ったため、わざと空振りして、彼に敬意を示したんですね。
このことによって、それ以降始球式ではバッターが空振りするということが習わしになったのです。
豆知識②:177はかつて大隈重信の電話番号だった!?
もうひとつ大隈重信にまつわる豆知識を紹介します。
177にかけると、現在は天気予報につながりますが、
以前は実は大隈重信の電話番号だったというのはみなさんご存知でしたでしょうか。
1890年より電話サービスが始まり、当時の電話番号は今とは違い、申しこみした順番によって、
番号が決まっていましたが、1番は東京府庁、160番は三菱の創始者である岩崎弥太郎、
そして177番は大隈重信だったんですね。年がたつにつれどんどん電話を使う人がどんどん増えていき、電話番号も申込順から現在の数字を組み合わせたものへと変貌をとげます。
さいごに
いかがでしたでしょうか。
今回は大隈重信の足が義足になった理由と大隈重信にまつわる豆知識について紹介しました。
大隈重信がまさか義足だったのには驚きでしたね。
彼は暗殺されそうにもなったにもかかわらず、犯人のことを憎むどころか、ほめたたえて、
犯人の命日には毎年奥さんと一緒にお墓参りに行っていたんだそう。
歴史に名を遺す人はやはり、偉大で、考えることが一味違いますね。
尊敬の念に値します。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
それではまた!
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