作家として数々の作品を残し、恋愛や結婚など波乱に満ちた人生を歩んできた宇野千代さん。
そんな宇野さんが親しく交流していた人物の一人に、
小説『檸檬』で知られる作家・梶井基次郎さんがいます。
実は、二人が急速に親しくなった背景には、当時の宇野さんを取り巻く複雑な事情がありました。
また、二人の関係については、恋愛感情の有無をめぐる興味深い証言も残されています。
さらに、宇野さんの夫だった尾崎士郎さんとの間には、思いがけない騒動も!
そして、梶井さんの死後、宇野さんが語った不思議な出来事とは!?
そこで今回は宇野千代が交流した梶井基次郎さんのプロフィールや経歴、2人の出会い、
印象的エピソード、恋愛感情はあったのか、そして晩年について紹介します。
梶井基次郎のプロフィール

- 生年月日:1901年(明治34年)2月17日 –
- 没年月日:1932年(昭和7年)3月24日(享年31歳)
- 出身地:大阪府大阪市西区土佐堀
- 最終学歴:第三高校卒(現京都大学) 東京大学文学部中退
- 職業:小説家(文学者)
梶井基次郎の経歴
梶井基次郎さんは、父親の転勤に伴い、
東京や鳥羽、大阪などを転々としながら少年時代を過ごしました。
大阪の名門・北野中学校を卒業後、1919年に第三高等学校の理科へ進学。
当初はエンジニアを目指していましたが、次第に文学への思いが強くなり、
授業を休んでは読書や音楽に熱中するようになります。
特に夢中になったのが、谷崎潤一郎や志賀直哉らの作品でした。
友人への手紙に「梶井漱石」「梶井潤一郎」と署名するほど、文学にのめり込んでいたのです。
ところが、19歳の頃に肋膜炎を患い、休学を余儀なくされます。
その後も肺の病気に苦しみ、1924年に東京帝国大学へ進学したものの、
体調が悪化して卒業には至りませんでした。
それでも創作への意欲は衰えません。
1925年には中谷孝雄や外村繁らと同人雑誌『青空』を創刊し、代表作となる『檸檬』を発表します。
翌年、療養のため伊豆の湯ヶ島へ移ると、
川端康成や広津和郎ら文学者との交流を深めながら執筆を続けました。
宇野千代と梶井基次郎の出会い! 二人が急速に親しくなったきっかけ
川端康成ら文壇の仲間が集う湯ヶ島で出会う
宇野千代さんと梶井基次郎さんが出会ったのは、
1927年(昭和2年)の夏、静岡県伊豆の湯ヶ島でした。
当時、梶井さんは26歳、宇野さんは29歳。結核の療養のため湯ヶ島に滞在していた梶井さんは、
川端康成さんを訪ね、川端さんが逗留していた湯本館にも足を運んでいました。
一方、宇野さんも夫の尾崎士郎さんとともに湯ヶ島を訪れ、
川端さんが滞在していた湯本館に泊まっていました。
宇野さんによると、梶井さんを紹介したのは広津和郎さんか川端康成さんだったようです。
当時の梶井さんは、無口で少し近寄りがたい印象だったといいます。
しかし、笑うと目が細くなり、とても柔和な表情を見せる人だったそうです。
二人がすぐに打ち解けた背景
二人が親しくなった背景には、当時の宇野さんの夫婦関係もありました。
宇野さんと尾崎士郎さんの夫婦仲は冷え込んでおり、
尾崎さんが東京へ戻った後も、宇野さんは湯ヶ島に残っていました。
そして、二人が親しくなった当時の心境については、
「私たちは淋しさも手伝ってすぐ仲よくなり……」
と語っています。
人との縁は、ほんの少しのタイミングの違いで大きく変わるものですね。
もし尾崎さんが東京へ戻らず、宇野さんも湯ヶ島を離れていたら、
二人の関係はまた違ったものになっていたかもしれません。
宇野千代と梶井基次郎の心温まる交流! 夜中の語らいや葉書に喜んだ意外な姿
夜中の12時までおしゃべり!梶井基次郎が湯本館に通い詰めた理由

湯ヶ島に滞在していた頃、
梶井基次郎さんは宇野千代さんが泊まっていた湯本館を何度も訪れていました。
夕食を終えると、二、三十分かけて歩いてやって来る梶井さん。
話し始めると時間を忘れてしまい、夜中の12時頃まで語り合うこともあったそうです。
宇野さんは、梶井さんについて「とても話が面白い人」と振り返っています。
木や花、草や鳥の話には詳しく、人の話を聞くのも上手だったといいます。
一方で、自分の病気や心の内についてはほとんど語らない人でした。
そんな梶井さんに困っていたのが、湯本館の女中さんたちです。
なかなか帰らない梶井さんに帰る時間を知らせようと、廊下に箒を立てておいたこともあったそうです。
葉書を振り回して大喜び!宇野千代が見せた意外な反応
梶井さんから届いた一枚の葉書に、宇野さんが大喜びしたというエピソードもあります。
大阪から上京して馬込を訪れるという知らせを受け取った宇野さん。
嬉しさのあまり、葉書をひらひらと振りながら「梶井さんが来るのよ!」と、
近所を触れ回ったといいます。
当時の様子について、宇野さんは次のように振り返っています。
「わたしは嬉しくて嬉しくて、その葉書をヒラヒラさせながら、『梶井さんが来るのよ!』って、
馬込中を触れて歩きました」
会いたい人から届く知らせは、何度読み返しても嬉しいものですね。
宇野さんの喜びようからも、梶井さんがどれほど特別な存在だったのかが伝わってきます。
梶井が残したあまりにも切ない言葉
湯ヶ島での交流からしばらくして、梶井さんは体調が回復しないまま、
大阪の実家へ帰ることになりました。
その際、梶井さんは宇野さんに、こんな言葉をかけたといいます。
「僕が死ぬようなことがありましたら、宇野さん手を握ってくれますか」
宇野さんは「無論手を握ってあげますよ」と答えました。
当時、梶井さんはすでに結核の第3期に入っていました。
宇野さんは後年、「病気なら弱気で、大阪のご実家に早く帰したり何かすればよかったのに……」と、
当時を振り返っています。
大切な人との別れは、後になってから「あのとき、こうしていれば」と思うこともあるのでしょうね。
梶井さんの言葉と宇野さんの後悔を思うと、胸に迫るものがあります。
宇野千代と梶井基次郎に恋愛感情はあった?
梶井の友人が明かした二人の関係
梶井基次郎さんと宇野千代さんの関係について、興味深い証言を残している人物がいました。
それが、梶井さんの親友で、同人誌『青空』をともに創刊した作家の中谷孝雄さんです。
中谷さんは、梶井さんにとって宇野さんとの出会いは「生涯唯一度の厳粛な恋愛」だったと語っています。
後年の対談では、梶井さんの片思いだったのかと尋ねられ、
「そんなことはないのです。宇野さんも承知の上ですけどね」と答えたそうです。
また、中谷さんによると、梶井さんは宇野さんに何通もの手紙を書いていたといいます。
梶井さんの全集を刊行する際、中谷さんが宇野さんに手紙を提供してほしいと頼んだところ、
引っ越しを繰り返すうちに焼いてしまったとの返事があったそうです。
そのため中谷さん自身も本当のところは分からないと話しており、
手紙の内容は今も明らかになっていません。
宇野千代が振り返る梶井基次郎との関係
では、宇野さん自身は梶井さんのことをどう思っていたのでしょうか。
宇野さんは梶井さんについて、「とても好きで尊敬していました」と語っています。
特に惹かれていたのは、梶井さんの文学でした。
瀬戸内寂聴さんとの対談では、梶井さんの容姿について冗談を交えながらも、
「書くものがすごくいいから、それだけは尊敬していた」と話しています。
二人の関係についても、宇野さんはこんな言葉を残しています。
「梶井さんがわたしに恋愛感情を持っていただろうって、人はよくそう言いますけれども、
それも梶井さんはこうだっただろう、とこちらが察するよりほか方法がないの。
わたしは、姉弟のようなというのが一番的確のように思うけれど、仮に恋愛だとしても、
とても抽象的なものでしたね」
梶井さんの気持ちについても、本人から直接聞いたわけではなく、
宇野さん自身もはっきりとは分からなかったようです。
二人の親密さから恋愛の噂も広まっていた
二人が親しく交流していたこともあり、周囲では恋愛関係にあるという噂も広まっていました。
ところが、宇野さんは後年、そうした噂について、
自分も梶井さんも知らない間に広まっていたと振り返っています。
さらに、瀬戸内寂聴さんのインタビューでは、梶井さんとの肉体関係はなかったとも明かしています。
その理由を尋ねられると、「私は面食いだから」と冗談めかして答えたそうです。
梶井さんの作品を心から愛し、尊敬していた宇野さん。
梶井さんと過ごした時間は、恋愛という言葉だけでは表せない特別なものだったのかもしれませんね。
好きという気持ちにもいろいろな形があるのだと、改めて感じます。
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梶井基次郎と尾崎士郎の決闘騒動
宇野千代さんと梶井基次郎さんの親密な関係は、周囲にも少なからず影響を与えていました。
なかでも複雑な思いを抱いていたのが、当時の宇野さんの夫だった作家・尾崎士郎さんです。
やがて尾崎さんと梶井さんの間には、作家仲間の間でも噂になるほどの騒動が起こります。
いったい二人の間に何があったのでしょうか。
実はこの騒動には、尾崎さんの宇野さんへの思いや、梶井さんとの複雑な関係が関わっていました。
尾崎士郎さんがどのような人物だったのか、波乱に満ちた生涯や代表作についても、
こちらの記事で詳しく紹介しています。
梶井基次郎の晩年|結核との闘いと31歳で迎えた最期


出典:梶井基次郎小説全集 下巻
淀野隆三 編 作品社 昭11
病と闘いながら書き上げた最後の作品『のんきな患者』
梶井基次郎は1920年に肺尖カタルと診断されて以来、約12年にわたって結核と闘い続けました。
1932年の正月には病状が深刻になり、伊丹郊外にある兄の家で、
母の看護を受けながら療養していました。
そんな中、梶井が最後に書き上げたのが小説『のんきな患者』です。
自身の病状をユーモアを交えながら淡々と描いた作品で、
生前に商業誌へ掲載された唯一の作品でもありました。
死の直前にして、初めて原稿料を得ることになったのです。
友人たちに支えられた最期と宇野千代の思い出
梶井さんの衰弱した姿を見た三好達治さんは、友人の淀野隆三さんに相談し、
梶井さんの作品集を刊行しようと奔走しました。
武蔵野書院の前田信さんも出版を引き受け、淀野さんは校正作業に力を尽くしたといいます。
そして1932年3月24日、梶井基次郎は肺結核の悪化により、31歳の若さで亡くなりました。
梶井の死後、宇野千代さんは大阪市の常國寺にある墓を訪れています。
その際、墓の前に立つと雨が降り始めたそうです。
宇野さんはそのときのことを、
「梶井さんが、宇野さんよく来てくれたって、喜んで泣いてくれたような気がしたわ」
と振り返っています。
さらに、梶井について
「話をするのが上手な人でね、きいていると面白くて惚れぼれするようだったわ」とも語っていました。
生涯に残した作品は約20編と多くありませんでしたが、
没後に評価は高まり、代表作『檸檬』は現在も読み継がれています。
まだ31歳という若さで亡くなってしまったのは、本当に残念ですね。
もっと書きたいことも、やりたいこともきっとあったことでしょう。
そんな梶井さんの作品を、友人たちが何とか後世に残そうとしたことからも、
どれほど大切に思われていたのかが伝わってきます。
まとめ
今回は、宇野千代さんと交流のあった梶井基次郎さんのプロフィールや経歴、
二人の出会いや印象的なエピソード、恋愛感情をめぐる証言、尾崎士郎さんとの決闘騒動、
そして梶井さんの晩年について紹介しました。
湯ヶ島で出会った二人は親しく交流を続けましたが、
その親密な関係は尾崎さんとの間にわだかまりを生むことにもなりました。
梶井さんは結核と闘いながら『のんきな患者』を書き上げ、31歳でこの世を去ります。
その後も宇野さんは梶井さんとの思い出を語り、墓参りをした際に降った雨を、
梶井さんが喜んで泣いてくれたように感じたと振り返っています。
もう会えない人でも、ふとした瞬間にそばにいるように感じることがあるのかもしれませんね。
宇野さんにとって、梶井さんはそれほど忘れられない人だったのでしょう。
何気なく過ごした日々も、振り返ってみると、かけがえのない時間だったと気づくことがあります。
だからこそ、今そばにいる人との時間も大切にしたいものですね。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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