宇野千代の3番目の夫は小説家の尾崎士郎!結婚生活で起きたまさかの決闘と離婚の真相

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作家・宇野千代さんには、4度の結婚歴があります。

その3番目の夫だったのが、小説家の尾崎士郎さんです。

 

実は2人の出会いには、千代さんの人生を大きく変えるような出来事がありました。

 

さらに結婚後は、文士たちが集まる華やかな環境で暮らしていましたが、夫

婦の間では思わぬ騒動が起きたことも。

 

そこで今回は、尾崎士郎さんのプロフィールや経歴、宇野千代さんとの馴れ初め、結婚生活、

子供、離婚、そして晩年について紹介します。

 

 

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宇野千代の3番目の夫・尾崎士郎のプロフィール

 

 

尾崎士郎

 

 

 

  • 氏名: 尾崎士郎(おざき・しろう)
  • 生年月日: 1898年(明治31年)2月5日
  • 没年月日: 1964年(昭和39年)2月19日(享年66歳)
  • 出身地: 愛知県幡豆郡横須賀村(現・西尾市吉良町)
  • 最終学歴:早稲田大学除籍
  • 職業: 小説家

 

 

 

 

尾崎士郎の経歴

尾崎士郎さんは、実は若い頃から政治や社会の動きに強い関心を持っていました。

 

中学時代から社会主義運動に惹かれ、1916年(大正5年)には早稲田大学へ進学。

しかし、翌年に起きた「早稲田騒動」で指導者の一人となり、大学から除籍されることに。

 

 

その後は、社会主義者・堺利彦さんが創設した「売文社」に入り、

社会主義運動に関わる人たちと交流を深めていきました。

 

そんな尾崎さんの人生が、少しずつ作家の道へと動き始めます。

 

1921年(大正10年)、『獄中より』が「時事新報」の懸賞小説で第二席に入選。

これをきっかけに小説家として活動を始め、やがて文壇で知られる存在へと成長していきました。

 

 

 

宇野千代と尾崎士郎の馴れ初め

宇野千代さんと尾崎士郎さんが出会ったのは、1922年(大正11年)のことでした。

 

当時の千代さんは、夫・藤村忠さんが待つ札幌へ戻る途中。次の仕事の話をするため、

東京の中央公論社に立ち寄ります。

 

そこで紹介されたのが、作家を目指していた尾崎士郎さんでした。

 

中央公論社で出会った2人

実は2人には、出会う前からちょっとした共通点がありました。

 

前年の1921年(大正10年)、時事新報社が主催した懸賞小説で、

千代さんの『脂粉の顔』が一等、尾崎さんの『獄中より』が二等に入選していたのです。

 

千代さんは中央公論社の編集者・滝田樗陰さんを訪ねた際、

評論家の室伏高信さんから尾崎さんを紹介されました。

 

尾崎さんのどこかおどけたような雰囲気に惹かれた千代さんは、たちまち恋に落ちてしまいます。

 

千代が札幌へ戻らなかった理由

 

ところが、ここから千代さんの人生は大きく動き始めます。

なんと、夫の待つ札幌へ戻らなかったのです。

 

1923年(大正12年)5月には、千代さんと尾崎さんは東京・荏原郡馬込町に居を構え、

2人で暮らし始めました。

 

そして翌1924年、千代さんと藤村忠さんとの協議離婚が成立します。

 

藤村忠との離婚を経て尾崎と結婚

 

藤村忠さんとの離婚後、千代さんは尾崎さんと正式に結婚。

この頃から筆名も「宇野千代」とするようになりました。

 

こうして千代さんは、尾崎さんとともに新たな人生を歩み始めることになります。

 

晩年の千代さんは、尾崎士郎さんについて「一番好きだったのは、尾崎士郎だった」と語っています。

それほどまでに、尾崎さんとの出会いは千代さんの人生に大きな影響を与えたのでした。

 

 

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宇野千代と尾崎士郎の結婚生活 華やかな文士村での暮らしと夫婦のすれ違い

尾崎士郎さんと宇野千代さんが暮らしたのは、作家や詩人たちが集まる東京・馬込でした。

 

華やかな文士たちとの交流を楽しむ一方で、千代さんは故郷・岩国の料理でもてなし、

家庭では意外な一面も。

 

ところが、そんなにぎやかな暮らしの裏では、2人の夫婦関係に少しずつ変化が起きていました。

 

ここでは、尾崎さんと千代さんの結婚生活を象徴する3つのエピソードを紹介します。

 

「馬込のモダンガール」と呼ばれた宇野千代

 

1923年(大正12年)、尾崎士郎さんとともに東京・馬込に移り住んだ宇野千代さんは、

いつしか「馬込のモダンガール」と呼ばれる存在になりました。

 

当時の馬込は、まだ大根畑が広がるのどかな場所。

 

そんな中を千代さんは、流行の短い髪にし、

着物の上から黒びろうどの短いマントを羽織って歩いていたといいます。

 

若い頃の宇野千代

出典:宇野千代 岩国の旅

千代さん自身も、当時流行していたボブヘアについて「日本で最初にしたのは私だ」と語っていました。

 

その姿は文士村の女性たちにも影響を与え、

萩原朔太郎さんの妻や川端康成さんの妻も千代さんをまねて髪を切ったそうです。

 

女性たちが次々と断髪する姿に、馬込の人々も驚いたのだとか。

 

さらに、文士たちの間ではダンスパーティーも開かれ、千代さんも参加。

麻雀も好むなど、当時の流行を楽しんでいました。

 

尾崎さんと千代さんの家には、そんな2人の人柄を慕って多くの文士が集まります。

 

川端康成さん、萩原朔太郎さん、広津和郎さん、牧野信一さん、三好達治さん、室生犀星さんなど、

名だたる作家たちが出入りしていたため、いつしか「馬込放送局」と呼ばれるようになりました。

 

まさに、文士たちが集まる華やかな場所だったのです。

 

 

千代が故郷・岩国の料理で仲間をもてなした

 

華やかな社交生活を送っていた千代さんですが、家では料理を作ることも好きだったようです。

 

外食するよりも、自分で料理を作って家で食べることが多かったという千代さん。

来客があると、故郷・岩国の郷土料理を振る舞っていました。

 

その代表が「岩国寿司」と「大平」です。

 

千代さんのレシピによる岩国寿司は、岩国産のれんこんに瀬戸内の鯛、サニーレタス、干ししいたけ、

錦糸卵、でんぶなどを使った華やかな押し寿司。

 

尾崎さんも「酒の肴にこんな好いものはない」と絶賛していたそうです。

 

一方の大平は、鶏肉や野菜がたっぷり入った汁物。

岩国寿司とも相性がよく、大勢の客をもてなすときには欠かせない料理だったといいます。

 

華やかな文士たちが集まる「馬込放送局」では、千代さんの料理も楽しみの一つだったのかもしれません。

 

梶井基次郎との「決闘」で夫婦関係に亀裂が

 

そんな華やかな結婚生活の一方で、尾崎さんと千代さんの間では、

夫婦仲をめぐる気になる出来事も起きていました。

 

 

その中でも大きな出来事となったのが、1928年(昭和3年)1月に起きた、

梶井基次郎さんとの「決闘」事件です。

 

当時、馬込文士村では、梶井さんと千代さんの仲が噂されていました。

そんな2人の親しい関係に、尾崎さんは複雑な思いを抱いていたそうです。

 

事件が起きたのは、詩人・衣巻省三さんのアトリエで開かれたダンスパーティーでした。

 

梶井基次郎

出典:近代日本人の肖像

 

そこで尾崎さんと梶井さんが顔を合わせると、

尾崎さんはいきなり梶井さんの頬を殴り、騒ぎになります。

 

後年の尾崎さんの回想によると、さらに火のついた煙草を梶井さんに投げつけると、

梶井さんはそれを拾い上げ、「よし、やろう。さあ来い!」と立ち上がったといいます。

 

千代さんが尾崎さんを止めようとすると、尾崎さんは千代さんを突き飛ばし、

「貴様におれをとめる資格があるのか!」と叫んだとも。

 

こうして楽しいはずのダンスパーティーは、思わぬ騒動の場となってしまったのでした。

 

 

宇野千代と尾崎士郎はなぜ離婚した?離婚の経緯とその後

離婚の理由は?夫婦関係が次第に変化

 

梶井基次郎さんとの「決闘」事件から約2年後、尾崎士郎さんと宇野千代さんは離婚することになります。

2人の離婚には、千代さんと梶井基次郎さんの親しい関係をめぐる出来事が大きく関係していました。

 

1927年、宇野千代さんは川端康成さんに誘われて伊豆・湯ヶ島を訪れます。

そこで梶井基次郎さんら文士たちと知り合い、交流を深めていきました。

 

その後、梶井さんが千代さんのもとを頻繁に訪れるようになり、

2人の親しい関係が周囲で噂されるように。

 

こうした中で、尾崎士郎さんの心も少しずつ千代さんから離れていき、

馬込の自宅に寄り付かなくなっていきます。

 

そして1928年正月、尾崎さんは馬込の家を出ることに。

さらに翌1929年には、古賀清子さんと同棲を始めています。

 

一方、千代さんはすぐに尾崎さんとの別れを決めたわけではありませんでした。

 

それでも、すでに夫婦として一緒に暮らすことは難しい状態になっており、

別居生活を経て、結婚から4年後の1930年8月に正式に離婚することになりました。

 

離婚後、2人はそれぞれ再婚

 

離婚後、尾崎士郎さんは古賀清子さんと再婚しました。

一方、宇野千代さんは、1939年に北原武夫さんと再婚しています。

 

こうして2人は、それぞれ別の相手と新たな人生を歩むことになりました。

 

宇野千代と尾崎士郎に子供はいた?

宇野千代さんと尾崎士郎さんの間に、子供はいませんでした。

子供がいなかった理由は、はっきりとは分かっていません。

 

ただ、2人の結婚生活は約4年と短く、その間に夫婦関係も変化していきました。

また、一説には、千代さんが尾崎さんとの間に妊娠し、流産したという話もあります。

 

 

尾崎士郎の晩年 故郷を愛し、最期まで作家であり続けた人生

尾崎士郎さんは宇野千代さんと離婚後も執筆を続け、

故郷にもたびたび足を運んでいました。

 

30年ぶりに故郷へ!帰郷を喜んだ尾崎士郎

 

戦時中、尾崎士郎さんは家族と一緒に静岡県伊東市へ疎開し、そこで雑誌『篝火』を発刊しました。

 

そして1947年、約30年ぶりに故郷・愛知県の横須賀村(現在の西尾市吉良町)へ帰ります。

久しぶりの故郷では大歓迎を受けたそうで、尾崎さんもかなりうれしかったようです。

 

その後もたびたび帰郷して講演などを行い、地元では後援会「瓢山会」も結成されました。

 

また、戦時中に文学報国会の理事を務めていたことから、戦後には公職追放となっています。

それでも執筆活動を続け、『成吉思汗』や『伊勢新九郎』などの歴史小説も手がけました。

 

1954年からは東京・大田区山王で暮らし、晩年まで作家として活動しています。

 

最期まで仕事を続けた尾崎士郎「桜井の駅の別れ」を家族に歌ってもらう

 

晩年の尾崎さんは病気を抱えていましたが、それでも仕事をやめることはありませんでした。

 

1961年には膀胱と結腸部の手術を受けましたが、その後も新聞連載小説を書いたり、

旅行に出かけたりしていたといいます。

 

しかし1964年に入ると、次第に体調が悪化。

それでも亡くなる直前まで仕事を続け、週刊誌の連載も口述していました。

 

そして最期の夜、尾崎さんは家族に「桜井の駅の別れ」を歌ってほしいと頼みます。

 

晩年の尾崎士郎

出典:角川書店「昭和文学全集28巻(1954年1月発行)

 

家族が歌う中、尾崎さんは午前0時53分、直腸がんのため、66歳で亡くなりました。

なお、亡くなった後に、文化功労者に選ばれています。

 

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まとめ

今回は、宇野千代さんの3番目の夫・尾崎士郎さんについて、馴れ初めから結婚生活、離婚、子供、

そして晩年まで紹介しました。

 

2人は馬込の文士村で多くの作家たちに囲まれて暮らしていましたが、

夫婦の間では梶井基次郎さんとの「決闘」という驚きの出来事もありました。

そんな2人も別々の道を歩むことになります。

 

尾崎さんが決闘したのは、それだけ千代さんのことが好きだったからではないでしょうか。

じゃないと、決闘なんてしないですよね。

大切な存在だったからこそ、他の人に渡したくないという気持ちもあったのかもしれません。

 

それなのに、最後には別れることになったと思うと、なんとも切ないですね。

かなり好きだったとしても、

好きな気持ちだけでは一緒にいられないこともあるんだなと感じさせられます。

 

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

 

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