作家・宇野千代さんには、4度の結婚歴があります。
その2番目の夫だったのが、藤村忠さんです。
実は2人は意外な関係から夫婦になりましたが、
結婚生活では決して順風満帆とはいえない時期もありました。
そんな中、千代さんの人生を大きく変える出来事が起こります。
そして、2人の結婚生活の終わりには、さらに驚くような展開が!
そこで今回は、宇野千代さんとの衝撃の馴れ初めから結婚生活、離婚、子供、
そして藤村忠さんの晩年まで紹介します。
宇野千代の夫・藤村忠はどんな人?
藤村忠(ふじむら・ただし)さんは、1896年生まれで、宇野千代さんより1歳年上です。
千代さんの2番目の夫で、最初の夫・藤村亮一さんの弟にあたります。
忠さんは若い頃から学業に励み、1917年には東京帝国大学へ進学。
1920年に大学を卒業すると、北海道拓殖銀行に就職し、札幌支店で勤務しました。
宇野千代と藤村忠の馴れ初め
宇野千代さんと藤村忠さんの関係は、千代さんが19歳のときの失恋がきっかけで始まります。
当時の千代さんは、小学校の同僚教師と激しい恋に落ちていました。
しかし、2人の仲が町中の噂となり、千代さんは教師を免職されてしまいます。
その後も相手を諦めきれなかった千代さんは、岩国まで会いに行きます。
しかし、相手から拒絶され、突き飛ばされたうえに雨戸まで閉められるという、
つらい失恋を経験。
そして失恋ですっかり落ち込んでいた千代さんを、
プロポーズして救ったとされるのが藤村忠さんでした。
忠さんは、当時は第三高等学校に通う学生で、
千代さんは忠さんを頼って京都へ向かい、そのまま2人で暮らし始めます。
こうして始まった2人の関係は、その後、結婚へと進んでいくことになります。
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宇野千代と藤村忠の結婚生活 苦しい生活の中で、千代は作家への道へ
仕送りがなくなった!夫婦で働いて支えた東京暮らし
1917年、忠さんが東京帝国大学に進学したころ、父親が裁判所を定年退職したことで、
仕送りが途絶えてしまいます。
そこで忠さんは大学に通いながら役所で働き、千代さんもさまざまな仕事をして家計を支えました。
東京に出てきたばかりの2人は、忠さんの兄・亮一さんの間借り先に身を寄せます。
千代さんにとっては、5、6年ぶりに兄と再会する機会にもなりました。
その後、千代さんは本郷3丁目にあった西洋料理店「燕楽軒」で給仕として働きました。
実は、そこで働いたのはわずか18日間でした。
その短い勤務期間に、千代さんは毎日50銭のチップを置いていく不思議な常連客と出会います。
その男性の正体は、店の向かいにあった中央公論社の編集長・瀧田樗陰さんでした。
当時、千代さんは相手が瀧田樗陰さんだとは知らなかったといいます。
自伝『生きて行く私』によると、千代さんは毎日もらえる50銭を楽しみに店へ通い、
18日間で質屋に預けていた品物をすべて取り戻せるだけのお金が貯まったため、
店を辞めたと振り返っています。
そんな中、忠さんが東京帝国大学を卒業する少し前、
北海道で新聞事業に携わっていた千代さんの伯父が、東京の2人を訪ねてきました。
伯父は2人に北海道へ来るよう勧め、まとまったお金を援助したといいます。
そのお金で、2人は質屋などへの借金を整理し、札幌までの旅費も用意することができました。
その後1920年、忠さんが東京帝国大学を卒業して北海道拓殖銀行に就職すると、
2人は札幌へ移住することになりました。

札幌で仕立ての仕事!稼いだお金で家まで購入
札幌へ移住した千代さんは、女学校時代に身につけた裁縫の腕を生かして、
着物の仕立ての仕事を始めました。
料理屋や宿屋で働く女性たちが主な顧客で、
注文を受けるために雪道を歩き回ることもあったといいます。
やがて周囲から「仕立屋の姐さん」と呼ばれるようになりました。
千代さんは仕立ての仕事で得たお金を、頼母子講(たのもしこう)の掛け金に充てていました。
頼母子講とは、仲間同士でお金を出し合い、順番にまとまったお金を受け取る昔の相互扶助の仕組みです。
千代さんは加入して3か月目にまとまったお金を手にし、
それを使って札幌に一軒の家を購入したといいます。
『脂粉の顔』が一等に!千代の人生が大きく動き始める
札幌で暮らしていた千代さんは、小説『脂粉の顔』を執筆しました。
この作品が「時事新報」の懸賞小説で一等に選ばれ、賞金200円を手にします。
さらに、その後に書いた『墓を発く』では、366円の原稿料も受け取りました。
当時の大卒初任給が月50〜60円ほどだったことを考えると、どちらも大きな金額です。
こうした成功をきっかけに、千代さんは作家としての道を歩み始めていきました。
とはいえ、家事をこなしながら小説を書く生活は、決して楽なものではなかったようです。
それでも千代さんは執筆を続け、少しずつ作家としての地位を築いていきました。
実は宇野千代さんには、藤村忠さん以外にも3人の夫がいました。
最初の結婚期間は衝撃の短さで、3度目の結婚では妻をめぐって驚きの騒動が起きたことも――。
4度の結婚には、それぞれどんな出会いや結末が待っていたのでしょうか?
夫・藤村忠と尾崎士郎が対面!3人で鍋を囲んだ夜
妻のもとへ突然現れた藤村忠!東京で何があった?
1922年(大正11年)12月ごろ、札幌で暮らしていた藤村忠さんが突然、東京にやって来ます。
千代さんのもとには「アスヨル 八ジ ウエノツク」という電報が届きました。
忠さんは、自身が執筆した社会学の論文を改造社に送っていたものの、
返事がなかったため、確認するために上京したといいます。
そして、この訪問がきっかけで、
千代さんの新しい恋の相手である尾崎士郎さんとも顔を合わせることになりました。
夫と恋人が同席!まさかの3人で鍋を囲む
3人が訪れたのは、東京・本郷にあった肉料理店「江知勝(えちかつ)」。
なんと、千代さん、忠さん、尾崎さんの3人で鍋を囲み、お酒を飲んだのです。
夫と妻が心を寄せる男性が同じ席にいるという、なんとも気まずい状況。
そんな中、忠さんは尾崎さんに「なぜ千代と結婚しないのか」と尋ねたといいます。
さらに、世間で活躍している評論家たちと比べても、自分の力は見劣りしないと主張したそうです。
こうした話に耐えられなくなった尾崎さんは、先に帰ろうとします。
すると忠さんは、今度は2人だけで飲もうと誘ったのでした。
大塚駅で交わした最後の「さようなら」
その後、千代さんと忠さんは2人で酒場や居酒屋を何軒か回りました。
ところが、2人は口論になってしまいます。
千代さんは後に、このときのことを
「いつもだったら、あたしの方があやまってしまうんだけれど、どうしてもそんな気にはなれない」と
振り返っています。
やがて忠さんは大塚駅へ向かいます。
千代さんは駅まで見送りましたが、忠さんは怒った様子で切符を買うと、振り返ることなく改札口へ。
そして、忠さんが「さようなら」とたたきつけるように告げると、
千代さんも思わず「さようなら」と返してしまったといいます。
宇野千代と藤村忠なぜ離婚した? そのきっかけは尾崎士郎との出会い
藤村忠さんと宇野千代さんの結婚生活は、1924年4月に協議離婚が成立して終わりを迎えました。
2人の離婚の直接的なきっかけとなったのが、千代さんと作家・尾崎士郎さんとの出会いです。
『脂粉の顔』で作家デビュー!千代が東京へ向かった理由
千代さんは1921年、札幌での結婚生活中に書いた短編小説『脂粉の顔』で、
「時事新報」の懸賞小説の一等に選ばれました。
このときの筆名は「藤村千代」。さらに翌1922年には、
中央公論社に送った『墓を発く』の原稿料を受け取るため、東京へ向かいます。
そこで紹介されたのが、同じ懸賞小説で千代さんに次ぐ二等だった尾崎士郎さんでした。


出典:宇野千代 岩国の旅
千代さんは尾崎さんに一目惚れし、そのまま東京で暮らし始めます。
そして、夫の待つ札幌へは戻りませんでした。
1923年5月には、千代さんと尾崎さんは東京の荏原郡馬込町に居を構え、2人で暮らすようになります。
夫のもとへ戻らなかった千代、ついに離婚へ
千代さんが札幌へ戻らないまま、翌1924年4月2日、藤村忠さんとの協議離婚が成立しました。
その後、千代さんは尾崎士郎さんとの関係を続け、1926年には正式に結婚しています。
また、離婚が成立した1924年4月には、作品『夕食』で初めて「宇野千代」の筆名を使用しました。
千代さんにとって藤村忠さんとの結婚生活は、
京都、東京、札幌で暮らしながら作家としての道を切り開いていった時期でもありました。
『脂粉の顔』や『墓を発く』で自信をつけ、作家として生きていこうとする中で、
尾崎士郎さんとの出会いが重なり、人生の大きな転換点を迎えることになったのです。
藤村忠と宇野千代に子供はいた?
藤村忠さんと宇野千代さんの間には、子供を授かった経験がありましたが、
成長した子供はいませんでした。
実は千代さんは、忠さんとの結婚生活の中で6度の妊娠を経験していました。
このことは、晩年に瀬戸内寂聴さんとの対談で明かしています。
千代さんによると、骨盤が小さく、赤ちゃんがおなかの中で十分に育たないことがあったそうです。
妊娠7か月ごろまでに生まれてしまうことが多く、6人のうち1人は無事に生まれたものの、
生後わずか1日ほどで亡くなってしまったといいます。
何度も子供を授かりながら、一緒に過ごすことがかなわなかった千代さんの心情を思うと、
胸が痛みますね。
母親として子供の成長を見届けたかった気持ちもあったのではないでしょうか。
藤村忠は晩年どうしていた?銀行員として歩んだその後
宇野千代さんと1924年に離婚した後も、藤村忠さんは銀行員として仕事を続けています。
北海道拓殖銀行に勤務し、1950年には同銀行の常勤監査役を務めました。
さらに、仕事だけでなく金融や経済の研究にも取り組んでいたようです。
1950年には『西欧諸国に於ける銀行業発達史』を刊行。
その後も研究を続け、1963年には『西欧諸国の都市、商業及び金融機構略史』や
『西欧諸国における金融経済及び債務法制小史』を発表しています。
ただ、藤村忠さんがいつ亡くなったのかについては、現在確認できる資料では分かっていません。
まとめ
今回は、宇野千代さんの2番目の夫・藤村忠さんについて、馴れ初めから結婚生活、離婚、子供、
そして離婚後の人生まで紹介しました。
藤村忠さんとの結婚生活は、決して長いものではありませんでしたが、
その間には、苦しい暮らしや千代さんの作家としての転機など、いくつもの出来事がありました。
そして千代さんが札幌へ戻らなかったことで、2人は別々の道を歩むことになります。
こうして順番に見ていくと、宇野千代さんは「人生が変わるような出来事」が起こるたびに、
そこから次の人生へ進んでいったようにも感じます。
もしあのとき札幌へ戻っていたら――。
そう考えると、藤村忠さんとの5年間も、
千代さんの長い人生の中では決して小さな時間ではなかったのかもしれません。
一人の女性の人生をたどっているだけなのに、読み終える頃には、
「この先、千代さんはどうなっていくんだろう」と、続きを知りたくなってしまいますね。
最後までお読みいただきありがとうございました。


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