シーボルト事件とはいったいどんな事件?

シーボルト 歴史
画像出典:ウィキペディア

江戸時代、日本を訪れた外国人の一人であるシーボルト。

どんな人かはあまり知らなくても名前は聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。

僕も医者だということは知っていましたが、それ以外は詳しく知りませんでした。

 

そんなシーボルトですが、彼はシーボルト事件というのを起こしたことでも

知られていますが、果たしてどんな事件だったのでしょうか。

 

そこで今回はシーボルトについて紹介したいと思います。

また彼にまつわる豆知識も紹介しますので最後まで読んでいただけると嬉しいです。

 

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シーボルトとは?

 

本題に入る前にまずシーボルトは何した人だったのでしょうか。簡単に説明したいと思います。

 

シーボルトは、ドイツの医者・博物学者であり、1796年ドイツのビュルツブルクという町で

生まれました。父や祖父も医者をしていて、さらには親戚も医者や医学教授だったりと、

名門の血筋でした。

 

1815年、ビュルツブルク大学の哲学科に入学するのですが、家族や親せきのすすめにより、

医学の道を志すようになり、医学のほかにも植物学や動物学などを学んでいるんですね。

 

また意外な一面として、このころ、彼は決闘をよくしており、その数たるや33回!

当然のことながら顔に傷ができたこともありました。

 

ほどなくして、彼はデリンガー教授やエーゼンベック教授と出会い、

手厚くもてなされるのですがこのことがきっかけとなり、

植物学に強い興味を惹くようになるんですね。

 

大学を卒業した後、ハイデックスフェルドというところで町医者として活動するも、

物足りなさを感じていました。

 

そして東洋のことも学びたいと思い、オランダの軍医となります。

オランダの命令で彼は来日することとなり、長崎に到着するんですね。

そこで患者を診察することとなります。

 

さらに鳴滝というところで鳴滝塾を開講し、多くの医者を集め医学などを教えています。

また出島に植物園を作り、1400種以上もの植物を栽培していました。

 

ちなみに来日後まもなくして一緒になった滝との間にイネという娘が生まれているのですが、

日本人女性初の産婦人科医として、活躍しています。

 

1828年シーボルト事件をおこし、国外追放処分となってしまいます。

 

1830年、オランダに帰り、滞在中のアントワープで東洋学者のヨハン・ヨーゼフホフマンと出会ってから以後彼に協力してくれるようになります。

また日本が開国してくれるよう、オランダ国王であるウィレム2世に親書を作成しています。

 

1845年にヘレーネフォンガーゲルと結婚しました。

 

その後1854年、日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約締結され、

彼に対する追放令は解除されました。

 

1859年再来日し、1861年幕府顧問となります。

江戸や横浜にも宿泊しましたが、幕府に江戸退去を命じられ、顧問も解除されてしまいます。

 

1862年長崎から帰国し、日本で集めたものを展示するイベントを開催。

 

そして再び日本へと来ることになっていましたが、風邪をひいてしまい合併症として

敗血症をこじらし、70歳で亡くなります。

 

 

シーボルト事件とは?

本題に入ります。

シーボルトは日本に来て医者たちに医学を教えたり、植物を栽培していましたが、

彼が帰国する直前に事件が起きてしまいます。その事件とは俗にシーボルト事件というのですが、いったいどのような事件だったのでしょうか。

 

彼は帰国する前、日本を調査するにあたり、日本地図の写しや徳川家家紋である葵の紋が入った着物などを渡されました。そしてこっそり帰国する予定でしたが、

ばれてしまったのです。これをシーボルト事件というんですね。

 

このことが原因で、天文学者であった高橋影保(かげやす)をはじめ、

他十数名が処刑されることとなります。ちなみに

景保は獄死したのち塩漬けにされた挙句、斬首刑という大変痛ましい事態となりました。

 

またシーボルトも、上記でも説明したように国外追放処分となっています。

 

豆知識:シーボルトはあの楽器を日本に持ち込んだ!?

ここでシーボルトにまつわる豆知識を紹介します。

彼は、江戸時代、医者として来日し、医学を教えた人物として知られていますが、

実はある楽器を持ちこんだ人物としても知られています!

 

その楽器とはいったい何だと思いますか。

 

答えは、いまとなってはおなじみのピアノだったんです!

ピアノ

 

1823年シーボルトはピアノを携えて来日しました。そして帰国の際、

山口県の萩というところに住んでいた熊谷家におくるんですね。

というのも、かつて彼は長崎で熊谷家の4代目当主である義比(よしかず)を診察して、

治療を施したことがあり、そのことがきっかけで、ピアノを授けました。

 

もちろんピアノを持ってきたということもあり、彼はピアノが弾けるのみならず、

作曲もできてしまうほど音楽の才能も秀でていました。

ちなみにそれを裏付ける証拠として直筆の楽譜が見つかっています。

 

以上シーボルトにまつわる豆知識でした!

まとめ

いかがでしたでしょうか。

今回はシーボルト事件について紹介しました。

 

シーボルト事件とは、シーボルトが日本から持出厳禁であった日本地図のコピーや

徳川家の家紋入りの着物などをを持ち出そうとしましたが、見つかってしまった事件でしたね。

 

このことがきっかけで犠牲者が出てしまう事態となりましたが、

それでもシーボルトがいたからこそ、ヨーロッパの国々に日本の存在を知らしめたので

彼の功績は計り知れないです。

 

ちなみに彼はあじさいの学名に日本で一緒になったお滝の名前の一部をとって

ハイドランゲア・オタクサ」と命名しています。

 

それではまた!

最後まで読んでいただきありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

 

 

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